神といえども、なんの目的もなく、天地創造という途方もなく膨大なエネルギーを必要とする活動を行うわけはない。前にも述べたように──神も、けして孤独は好まない。最も好むものは何かと神に尋ねたなら、それは愛だと答えるはずだ。そして、あなたは全知全能ではないのかと尋ねたとしよう。きっと、こう答えるはずだ。
「わたしは全知全能だが、愛に関してはそうではない」
なぜなら愛は、一人では手に入らない。やはり神でも同じではないだろうか。だから、天地創造を始めることになったに違いない。
キリスト教で、神を “天の父” と呼ぶのはなぜだろう?
神に親しみを持たせるための方便だろうか?
いや、そうではない。
ぼく達に愛が必要であり、家族が大切なのは──神が創造したこの世界が、愛と家族という秩序によって成立するようにできているからだ。
全人類の血統をすべて遡っていくと、共通の祖先にたどり着く──とすれば、それがアダムとエバということになる。そして、さらに遡ることができるとすれば、最初に我が子、アダムとエバの誕生を願った神に到達する。父とは、文字通りの父なのだ。
神を父とし、すべての人類が兄弟になれば、世界は神の家にすっぽり入ることになる。それが神の国の到来を意味するのだ。
国家という言葉の家の字は、このことを意味するのではないか。神は父になろうとしたのだ。
世界中のすべての父が、家の中で必ず独裁者であるなら、神もまた独裁者に陥るだろう。
もし、ぼく達自身がそれを望まないのなら、神もまた、けして望まないだろう。
神の愛の統治による社会──ばかげた空想だと、あなたは笑うだろうか?
この世に、神など、いようものか!
ぼく達は、しばしば、正義を名乗って、すべての悪人を滅ぼすことを望む。しかし、神はけして、どんな悪人でも地上から消し去ったりしない。
だから手段を選ばない、力のある悪が、一定期間、栄えるように見える。
悪を野放しにする神などいらない! 神は死んだ! 神などいない!
どんなに神を蔑み、罵っても、天罰など下らないだろう。ほら、神がいない証拠さ!
そんなふうに、言いたくなっても無理はない。
──しかし、それこそが逆に、神が愛である証拠なのだ。
どんな悪人でも、神にとって子供であるなら、許すしかないのだから……