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天の父の意味するもの

2009年01月31日 16:29

 
 神といえども、なんの目的もなく、天地創造という途方もなく膨大なエネルギーを必要とする活動を行うわけはない。前にも述べたように──神も、けして孤独は好まない。最も好むものは何かと神に尋ねたなら、それは愛だと答えるはずだ。そして、あなたは全知全能ではないのかと尋ねたとしよう。きっと、こう答えるはずだ。
「わたしは全知全能だが、愛に関してはそうではない」
 なぜなら愛は、一人では手に入らない。やはり神でも同じではないだろうか。だから、天地創造を始めることになったに違いない。

 キリスト教で、神を “天の父” と呼ぶのはなぜだろう?
 神に親しみを持たせるための方便だろうか?
 いや、そうではない。
 ぼく達に愛が必要であり、家族が大切なのは──神が創造したこの世界が、愛と家族という秩序によって成立するようにできているからだ。
 全人類の血統をすべて遡っていくと、共通の祖先にたどり着く──とすれば、それがアダムとエバということになる。そして、さらに遡ることができるとすれば、最初に我が子、アダムとエバの誕生を願った神に到達する。父とは、文字通りの父なのだ。
 神を父とし、すべての人類が兄弟になれば、世界は神の家にすっぽり入ることになる。それが神の国の到来を意味するのだ。
 国家という言葉の家の字は、このことを意味するのではないか。神は父になろうとしたのだ。
 世界中のすべての父が、家の中で必ず独裁者であるなら、神もまた独裁者に陥るだろう。
 もし、ぼく達自身がそれを望まないのなら、神もまた、けして望まないだろう。
 神の愛の統治による社会──ばかげた空想だと、あなたは笑うだろうか?

 この世に、神など、いようものか!
 ぼく達は、しばしば、正義を名乗って、すべての悪人を滅ぼすことを望む。しかし、神はけして、どんな悪人でも地上から消し去ったりしない。
 だから手段を選ばない、力のある悪が、一定期間、栄えるように見える。
 悪を野放しにする神などいらない! 神は死んだ! 神などいない!
 どんなに神を蔑み、罵っても、天罰など下らないだろう。ほら、神がいない証拠さ!
 そんなふうに、言いたくなっても無理はない。
 
 ──しかし、それこそが逆に、神が愛である証拠なのだ。
 どんな悪人でも、神にとって子供であるなら、許すしかないのだから……


イエスの革命

2009年01月03日 22:31

 
 クリスマスは、イエスの生誕の祝いとして、世界中で祝われているわけだが、実は、イエスの正しい生誕日は分かっている。
 今日、1月3日が、それである。

 
 ところで、イエスの功績とは、いったいなんだろう?
 それはけして、クリスマスを世界中に広めたことではない。

 イエスが登場する前の旧約時代、最も巨大なヒーローと言えば、それは間違いなくモーセだ。
 映画ベンハーで主演をした、あのチャールトン・ヘストンが、もう一本の大作“十戒”で演じた旧約聖書中の最大のスーパー・スターが、まさしく“モーセ”である。(チャールトン・ヘストンのファンの一人としては、彼に猿の惑星のテーラーには、なってほしくなかったのだが……)
 旧約聖書の最初の五書を、モーセ五書と呼ぶことからも分かるが、モーセが人類歴史に与えた影響は計り知れない。
 
 出エジプト記の第三章で、モーセは初めて神と出会っている。神の山ホレブを訪れた時のことだ。柴が燃えているのになくならないという怪現象を目撃し、それを見定めようとした時、その燃える柴の中から神の声がして、モーセを呼ぶ。その時の神は、自らを名乗って、こう言う。「わたしは、有って有る者」
 有って有る者、これが神の正式な名前らしい。

 モーセが神からこの十戒を賜ることができなければ、人類は悪を公正に裁くことが未だにできなかったかもしれない。
 では、その十戒とはなんだろう? それはたぶん、神が人間に「あなたの良心に従って、正しく生きなさい」と言っても、思い通りの効果が得られないと思って、しかたなく、分かりやすいのを掻い摘んで十項目、石に刻んで、モーセに山の上まで受け取りに来させた人生のルールブックと、言ったものだろう。
 しかし、今日のぼくらにとって、それは神に対するイメージを著しく悪くするような代物でしかない。
 目には目、歯には歯、傷には傷、やけどにはやけど、命には命で、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義。
 偶像を極度に憎み、自分以外の他の神に仕えるならば激しく嫉妬する恐ろしい神。
 これでは、神は紛れもない独裁者になってしまう。
 前に述べたように、人間との父子関係を築くことなど到底望めないだろう。

 人間の心にはやはりレベルがある。そして、教育は、そのレベルに合わせて行わなければならない。小学生にたいして、大学生に施すような主体性を重んじた自由闊達な教育をしてはならないように、モーセの時代には恐怖心を利用してでも、教えたいことがあったのだ。
 ぼく達に十戒が合わないのは無理もない。イエスが人類歴史上初めて、神と人との父子関係の秘密を明かしたのだ。そのイエス革命の後に生まれたぼく達には、そのことを知ろうが知るまいが、その恩恵にあずかっているのだ。
 つまり、奴隷のように神に仕えなくてもいいと知っているし、たとえ、神を無視したり、無神論を唱えても、けして滅ぼされたりはしないと思っているのだ。
 

神はなぜ世界を創造したのか?

2008年12月28日 13:16


 後にサタンとなる天使ルシファーに強大な力を、なぜ神は与えなければならなかったのか疑問が残る。神なら、その危険性について、まったく知らなかったわけはないはずだ。
 とにかく、天使界は神にとって必要だったに違いない。旧約聖書、創世記第一章26節に「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……」とあるのは、神が二人以上いなければ、不自然な記述だ。このことからも、天使が人間の創造に深く関わっていたことがうかがえる。われわれという複数形は、天使も含めて、そう言ったと解釈できるからだ。

 それでは、神はなぜ世界(宇宙)を創造したのだろう?
 この疑問を解くためには、神を我々人間とまったくかけ離れた、手の届かない崇高な存在として、とらえすぎないことだ。無理にでも神の位置まで登るか、自分のレベルまで神を引きおろさなければならない。罪深さを認識しすぎたり、生態系を破壊する人間を地球でもっとも不必要な存在だとする主張は、ひとまず置いておこう。
 自分がもしも神だったら、というところから始めなければならない。ここからは、おとぎ話でもするような調子にならざるをえないが、勘弁していただきたい。

 天地創造以前の神は、ひどく孤独だった。
 暗闇の中に、ぽつんと、ただ一人でいたからだ。
 心も空っぽだった。どうにかそれを満たしたいと、いつも思っていた。
 だが、神は途方もない力を持っていた。頭の中でイメージしたものを、そっくりそのまま、形あるものに変えてしまえるのだ。
 神の頭の中には、とどまることなく、さまざまなアイデアが次々とあふれ出していた。それは、宇宙を設計するデザイナーとしての神の出発だった。
 神の創造への期待と興奮は次第に高まり、やがて頂点に達しようとしていた。しかし、簡単には創造を開始することはできなかった。なぜなら神は、宇宙の中心に絶対者として存在することになるため、一度創造を始めたなら、失敗したからといって、途中で中断したり、すでに創造したものを壊したり、適当に変更したりすることができなっかたのだ……

 少年だったころ、ぼくは、神などいないと思った。
 もしも、いるとしたら、宇宙に君臨する独裁者に違いないと思った。
 だが、神と同じかたちにかたどって造られたぼく達が、幸福になることを望むなら、神も幸福になることを間違いなくの望むはずだ。独裁者が幸福でないことくらい、神が知らないはずはない。

 ぼく達は、一人では生きていけない。
 愛がほしい。
 神も孤独はきらいだ。
 神も愛がほしい。

 キリスト教の教えの中で、特筆するべきものを一つだけあげるとしたら、神を父と呼んだことである。
 それが、すべてだと言っていい!
 神が、ほんとうにほしかったのは、家族ではないだろうか?
 もしも、ぼく達のもっとも大切なものが家族であるなら、神だって、いつまでも一人でいる計画を立てるわけない。

 神を父と呼ぶ存在を最後に、地に生み出すことを目的に、気の遠くなるような膨大な時間と手間をかけて、すべての創造を始めたのではないだろうか?


キリスト生誕の秘話

2008年12月23日 16:41


 まさか飼葉おけの中に産み落とされようとは、神でさえ想像もつかなかったのだという。
 新約聖書ルカによる福音書第二章の冒頭には、その経緯について簡単に書かれている。ローマ皇帝アウグストの全世界の人口調査を命じる勅令が発端となり、ローマ支配下にあったユダヤでもそのための登録が各地で行われた。ヨセフとマリヤもそのためにナザレを出て、ベツレヘムを訪れていた旅先での出産だった。
 聖書では当然のように、馬小屋の飼葉おけが栄光の救世主のベッドとして準備され、ピカピカにまばゆく発光でもしていたかのように書かれている。しかし、飼葉おけとは馬の飼料を入れるための器に他ならない。その時ベツレヘムは宿を求める旅人で過密状態にあり、宿屋という宿屋はすでに借り切られ、やっとのことでを借りられたのが馬小屋だったというのが本当のところではなかっただろうか。季節は真冬、どれほど寒かったか分からない。はたしてヨセフとマリヤがキリストの親として、その責任を十分に果たしていたのだろうか?

 そして、不満に思うことがもう一つある。東からきた博士たちだ。彼らは星に導かれて幼な子イエスを捜しあて、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげたとある。だが、それだけで、さっさと帰ってしまうとは、まことに腑に落ちない。ほかでもないキリストと出会ったのだ。生涯をかけ、守り従って行ったとしても、けしてやりすぎというものではなかろう。

 マタイによる福音書一章十八節にはこう書かれている。『イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった』つまり、イエスはヨセフとの血のつながりを持たなかった。聖書にはヨセフについて、あまり多くは書かれていない。どのようにイエスを愛し育て上げたか、一行ぐらい記述があってもよさそうなものなのに。おそらく、ヨセフはイエスに対して冷淡だっただろう。
 孤独で、悲しいイエスの誕生を、飼葉おけが象徴してはいないだろうか?


天使のクーデター

2008年12月21日 06:03

 人類歴史上、最古の記録と言えば旧約聖書だろう。
 旧約聖書の創世記第三章には、人がエデンの園から追放される経緯について書かれている。へびにそそのかされた女が、神に禁じられていた木から実を取って食べ、夫にもそれを食べさせた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづりあわせて、腰に巻いた。裸であることが恥ずかしいと感じるようになったことが、神を失望させ、エデンを追われることとなる。
 さっぱり分からない話だが、その中の “へび” の存在が気になってならない。

 ヒントは新約聖書のなかにあった。ヨハネの黙示録十二章7節〜9節にはこう書かれている。『さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された』
 また、旧約聖書、イザヤ書十四章12節にはこんな記述がある。『 黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった』

 人間を神から引き離した者がいたとしたら、それは悪魔だろう。
 明けの明星を意味する “ルシファー” という名の天使がいることを知っているだろうか?
 代表的な天使は三人いる。その三天使とは、ミカエル、ガブリエル、そして、ルシファー。
 もともと、彼は天使界の頂点に立つ天使長だったという。天使は、神が我が子として創造したアダムとイブに仕える立場にあり、そのことに強い不満を抱き、神から子供を奪い取ったのだ。
 これは、クーデターだった。
 エデンから追い出されたのは、実は、神だった!
 ルシファーはサタンとなり、エデンを地獄に変えた。その地獄が、ぼく達のいるこの世界に他ならない。
 
 これが聖書の裏に隠された物語である。
 はたして、神はサタンから、エデンを取り戻せたのだろうか?
 簡単ではなかったのだ。
 もしも、エデンが神のもとに戻っていたら、この世界は天国になっているはずではないか?


天国はどこにあるのか?

2008年12月12日 19:28

 この地上の物質世界は、目に見えない霊的世界と重なり合って存在している。二つの世界はそれぞれ性質が異なるため、ぶつかり合うこともなく、意識しなければ気づくことさえない。
 霊界はどこにあるのか? 今この場所にもある。ぼく達の身体や家の壁を通り抜けるように、霊界の住人達は行き来している。
 この地上と密接な関係を持つ霊界の影響を受けずして、ぼく達は生きては行けない。

 天国はどこにあるのか?
 だれもが幸福に暮らせるユートピアは、霊界のどこかにあるのだろうか?
 理想世界が、すでに天上にあり、ある日突然、地上に降りてくるのではない。
 理想世界とは、この地上に築かれて初めて、霊界にも姿を現すのだ。なぜなら、この地上をベースにして、その上に霊界が構築されているからだ。
 ぼく達には、まず身体があり、その上に心が宿っている。心とはすなわち霊魂である。そのような体と心の二重構造の関係が、そのまま地上と霊界の関係になっていると見ることができる。

 今日まで、数限りない人々が、生まれては死んで行った。しかし、一人として天国と呼ぶべき世界に住んでいる者はいない。彼らはすべて、霊界の住人としての本来あるべきレベルに達していないため、本来受けるはずだった霊界の恩恵を、まだ受けることができずにいる。想像もつかないほど素晴らしい世界だというのに……

 この地上に関心を持つ者として、最も多いのは言うまでもなく、恨みや、苦悩、苦痛によって拘束された悪霊だ。彼らは自分でもどうすることもできず、それを紛らわしたり、救われたい一心で地上と関わり、混乱をもたらしている。
 そんな悪霊とはまったく反対の善霊もまた、地上に関わろうとすることも確かだ。イエス、釈迦、マホメットのような聖人達でさえ、天国にはいない。天国に入るためには、この地上にまず、それを建てなければならない。理想世界に関心と責任を強く抱く者ほど、地上に関わらざるをえないのだ。
 地上で霊の力を借りやすい立場とは、中途半端な立場ではなく、善人か悪人か、両極に離れた立場だという。それはこういったことと関係があるのではないだろうか?

 天国は、一方的に与えられるものではなく、建設するものである。
 こう考えると、絶望的に思えてくる。
 この地上にないものは、霊界にも存在しないのだ。
 だが、もしも、あきらめないという人がいるなら、一言述べさせてもらいたい。
 あくまでも、地上が主体であり、主導権を握るのは地上のぼく達なのだ! 
 霊界をあなどってはならないが、けして恐れてはならない。
 そして、惑わされないためには、なにが善でなにが悪かの判断基準を、地上にいる自分自身でしっかり持たなければならない。国家的、世界的使命でも持たない限り、聖人級の善霊と直接関係することはまずあり得ない。たいていが、目的も正体も分からない怪しい霊ばかりなのだ。そんな霊達が、さまざまなことを囁きかけてくるのだ。
 彼らのいいように踊らされないためには、行動を決める判断基準がどうしても必要なのだ。
 
 同性愛に傾く自分はどうなのか? 
 大義のために自爆テロに走ろうとする自分は? 
 自殺は?
 他人に迷惑をかけなければいいのか? 
 人それぞれに、それぞれの価値観があって、ほんとうにいいのか?
 理想世界とはなにか?


神の統治する社会

2008年12月04日 18:20

 もしも、神が直接統治する国があったなら、その神の国とは──どんな国だろう?
 神の国の政治体制は、けして民主主義ではないと、まず最初に主張しなければならない。
 戦後の日本に生まれ育った我々のような者には、民主主義が大前提で、それ以外の社会は考えもつかないと言ってもいい。こんなに個人の生命や財産、さまざまな権利が保障された社会の制度は、歴史上まれに見る優れた制度だからだ。
 しかし、民主主義が人類史の最後に到達するべき最上のものと、はたして言い切れるだろうか?
 それぞれの国家が一つの目的と、そのための方向を明確に持って歩もうとする時、民主主義の歩幅はけして大きくはない。まず国家の意志を明確にすることにおいて、民主主義はひどく下手である。
 近頃の政治家たちが、お題目のように唱える “民意” “世論” というものが、我々をユートピアに導いてくれるものだと信じている人はまさかいないだろう。真に優れた政治家であるなら、時には世論と真っ向から対立してでも、正しい方向に国の舵取りをしなければないこともあるはずだ。
 また、政権与党が交代するような事態が生じたり、政権が安定しないためにもたらされる著しい効率の低下を、指摘しないわけにはいかない。
 三歩進んで、二歩下がる──まさしくこれが、民主主義の歩み方である。

 急激に進まないこと、それがいいのだという考え方も、一方にはある。
 民主主義は──自分たちの指導者が信じられないため、権力と権限にさまざまな制限を加えるためにあるという考え方だ。
 本当に、そうだろうか?
 現在、我々が直面している地球規模の環境破壊、地球温暖化による気候変動の問題。それによって、たとえば──近い将来、海面下に沈むであろう南太平洋の島国ツバルの人々にとって、待ったなしの問題ではないか。
 ──こんな時、神が直接、世界を統治してくれないだろうか──と考えるのは、ぼくだけだろうか?
 
 だから、絶対的な善の主体としての神が必要なのだ。
 我々全人類の良心を束ねて、神の心と結び合わせる救世主が、いてくれたなら……


無差別殺人者のネットワーク 

2008年11月28日 21:41

 元厚生事務次官らの連続殺傷事件は、思いもよらぬ結末を迎えた。
 だが動機が、腑に落ちない。まったく意味不明である。これを怨恨による殺人と言っていいのだろうか?
 ぼくの目には、あの秋葉原の無差別殺人事件と同じようなものにしか見えない。
 いくら殺人対象者のリストを作ったとは言え、ろくな面識もないような相手に対して、個人的な恨みなど、あろうはずもない。これは、無差別となんら違わない。
 
 神に対する挑戦なのだ!

 
 『殺すのは、だれでもよかった……』

 これはなにを意味するのだろう?
 ──世界中のすべての人間を一瞬にして消滅させる究極兵器を渡せば、そのボタンを押すかもしれない者の犯行だということだ。

 このような無差別殺人について、その動機を探ろうとしても、怨恨による殺人の場合ように、容易にうなずける答えにはけして出てこないだろう。
 殺人の意味が違うからだ。
 大げさで、滑稽に聞こえるかもしれないが、それは、社会秩序を根底から破壊しようとする、神に対する重大な挑戦と考えるべきである。

 また、このような殺人を、個人の犯罪としか捉えられずにいることも、本質に近づけない一因となるだろう。
 ──彼ら無差別殺人者たちは、どこかで繋がっている。
 無差別殺人者の見えないネットワークがある。
 ばかげたことを言ったついでに、ホラーのような話をさせてもらいたい。

 体は心の道具であり、心を運ぶ乗り物である。
 心とは霊魂である。
 我々は自分の体は自分だけの物だと思っているが、けしてそうではない。
 我々のこの世界と重なり、寄り添うように、霊的世界が存在する。二つの世界は、性質が異なるため、けして衝突し合うことはないが、関わることを強く望めば、関係を持つことも不可能ではない。この地上にいる人間のたいていは、霊界について意識しないまま生きているが、かつて地上にいた霊界の住人たちは当然、この地上世界を知っているし、関心を持つ者もいる。しかも、我々からは見えないのに、まったく一方的に、彼らからはよく見えるのだ。
 そして、我々の体を道具として利用することも、まったく不可能ではないのだ。

 地上で不幸な生活しかできなかった者にとって、霊界もその延長線上にあるため、けして幸福な世界ではない。
 彼らの望みは復讐だけである。
 特定な対象への恨みを晴らしたいだけなら、その子孫などにのみ働くので、目的が達せられれば、いつか恨みの解ける時も来る。だが、神を恨むような最も凶悪な霊たちはその恨みを晴らすために、半端なことはしない。地上にいるすべての人間を不幸な世界に引きずり込むことを計画し、飽くことなく悪事を働きつづけるのだ。

 不幸な者をタタリガミにしない方法は──
 ありきたりのことしか言えないが、
 ──愛しかないのだ!
 おまえは、神が望んだから、生まれてきたんだと、
 そして、生まれなければよかった者なんて、この世に一人もいないと、
 だれかが、確かな言葉で、そのことを理解させなければならない!

武士道から学ぶもの

2008年11月24日 08:53

 『サムライ』 に欧米人が関心を示すようになった。
 しかも、ファッション化の兆しさえ見える。
 インターネットラジオ “samurai.fm” がそのいい例だ。
 サムライ ジャパンは、そんなファッションを逆輸入したものと言っていいだろう。

 映画 “ラスト サムライ” は、なにを言いたかったのだろう?
 あの映画を見た外国人に、サムライについて質問されたなら、どう答えればいいのだろう?
 そんな時は、武士道について語るべきなのかも知れない。

 武士道とは死ぬことと見つけたり。
 
 あまりに有名なフレーズだが、まったく意味の分からない言葉でもある。文字どうり解釈すれば──刀を常に携帯している武士はたいへん危険な職業であるため、死ぬことを恐れていては勤まらない──と、いうことにでもなるだろうか。
 そんなアホなことを言いたくなければ、もっと深く読み解かなければならない。

 武士道とは、自己否定の道である。

 自分のために生きてはならないのだ。
 ──これが、私たち日本人が美徳としてきた精神の根本原理である。
 この武士道を信じる者は、主君がどんなに愚かな殿様であっても、主君というその位置に対して仕えるのだ。
 これはまったく、私たちには理解しがたく、困難な道である。なぜなら民主主義が、彼らが命懸けで守った位置をだれでも簡単に取って代われる、薄っぺらで軽いものに変えてしまったからだ。
 そのため、私たちのこの国では、指導者がこんなにも蔑まれていて、はたしていいのだろうかと、心が寒くなるような今日を迎えている。
 
 そして、もっと嘆かわしいのは──私たちの国には、本当の軍隊がない。軍人を自衛官と呼び、誇りある位置を与えずに、あいまいな立場に置き去りにしたままである。だから自衛隊には、自分の目的のためにそこを上手に活用しようと考える者が出てくるのだ。
 軍人は自分の損得を考えず、国民を守るためにいつでも生命を投げ出さなければならず、国民は彼らに敬礼して、心からの感謝を表明するべきではないか。これは、国家が戦争を好むとか、好まないとか、ということとは、まったく別の話である。
 もしも、そのような秩序が日本にあったのなら──国を守る使命を負った艦船が通過する時、民間の船の船長は敬礼をして航路を譲ることが慣例になっていて──あのような不幸な事故は起こらなかったかもしれない。

 現在のこの社会は、なにかが違うと感じるのは、私だけだろうか?
 私たちの体の中にある、美しい旋律と、リズムのような、社会秩序の感覚は、もう簡単に思い出せない、遠い幻のような思い出になってしまったのか……
 もう取り戻すことは、叶わないのだろうか?
 時計の針を逆まわしにしたいと、願うのではない。
 なぜなら、サムライが、けしてしあわせであったとは限らない。
 許しのない封建社会でもなく、独裁者の圧政からも決別した、忠孝の精神を底辺に持つ新世界を創ることはできないのだろうか?


いつか、空を飛ぶ日

2008年11月23日 06:53

 あなたは、こんなことを考えたことはないだろうか?
 鳥や、羽根を持った虫たちは、自由自在に空を飛べるのに、どうして人は飛ぶことができないのかと。
 神様、たよりなくフワフワ空中に浮いているような、あんな蝶々でさえ飛ぶのに、この地上でもっとも優れているはずのわたし達人間を、どうして飛べるようにしてくれなかったのですか?
 そうたずねたら、神はなんと答えるだろう?
「おまえたちも、時が来れば、飛べるようになる」
 きっと、そう答えるだろう。

 蝶の一生は、点・平面・立体的空間、の三段階にわたって、次元を高めながら進行する。卵は点である。孵化して幼虫になり、平面である植物の葉の上を這い回って暮らす。やがて、サナギになり、まるで死んだかのように動かなくなる。そしてそこを割って出て、第二の誕生を果たした蝶は、自由に空を舞って生きるのだ。

 人間も、水中・地上・空、の三段階にわたって、生きるようになっている。
 胎児は水中である、母胎に満たされた羊水の中で十ヶ月暮らす。その後、そこを蹴って飛び出し、この地上に産声を上げる。そして、それぞれの寿命を終えて地上に別れを告げ、空にたとえるべき霊的世界へと生活の舞台を変えるのだ。死とは、老いた肉体を霊魂が抜け出し、次なる高次元的世界へ旅立つ第二の誕生の時なのだ。

 人は、霊界という言葉を耳にすると、すぐに怪談やホラーといった興味本位のものに結び付けがちになる。それが危険なのだ。人生の本質を見えなくしてしまう。
 人生は、永遠なのだ!
 蝶が羽ばたく時のように、
 人間に用意された次の世界、霊界はとんでもなく次元が高い。

 霊界では、人間は空を飛ぶ!
 それどころか、瞬間移動さえする。
 時間と空間を超越した世界なので、条件さえ合えば、歴史上のどんな人物とも、会いたいと思っただけで会える。
 言語の違いを超えたテレパシーのような手段で、コミュニケーションを行うため、だれとでも通じ合い、誤解も生じない。
 食事をしなくても、死なない。(もう、死んでいる)
 つまり、生活費を稼ぐために働く必要がない!
 芸術家は芸術以外のものと関わらなくていいのだ。
 夢中になっていることがあるのに、ご飯を食べなさいと言われ、それを中断されなくてもいいのだ!
 なんと都合のいい世界なんだろう!
 しかし、これがまた、とんでもない事態を引き起こすことになるのだ……

 霊界を一言で言い表すなら、“心が実体化したような世界”とでも言うべきだろうか。
 霊界では、方便やごまかしが利かない。
 権力や財力を用いて、人を動かすという手法がまったく通用しない。
 霊界においては、知識も簡単に共有することが可能なため、それを持って行ったとしても、なんの魅力も持たない。
 いったい、なにが有効なのか、よく考えてみるべきかもしれない。

 そこでは、心が、いやだと感じたなら、無限の距離が生じる。
 とても深刻な問題がある。
 ぼく達は、ずっと家族といっしょに、いられるだろうか?
 地上では、どんなに憎み合う夫婦も、体があるおかげで、同じ屋根の下にいられる。
 家族がいっしょにいられるためには、なにが必要なのだろう?
 よく考えてみるべきだろう。

 そして霊界において、自殺者はどうなるのだろう?
 自殺とは、自分を取り巻くすべての環境と、すべての人との関わりを、自分で絶ってしまうため、霊界で自分が立つべき足下の基盤をすべて失ってしまうことになる。
 とにかく、けして、やってはならない!
 空を飛ぶどころの話ではない。

 その日が来たら、
 ここでは、ほんとに飛べるんだと、大はしゃぎで行きたい。